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	<title>研究者の仕事術</title>
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	<description>-実践と研究の両輪を回す実践的研究者の仕事のつくり方-</description>
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		<title>あらゆる研究活動は社会的実践活動である。</title>
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		<pubDate>Tue, 15 Nov 2011 12:33:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[amphibia]]></category>

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		<description><![CDATA[全ての研究は社会的な意味を持つ。 Q:佐倉先生は、進化生物学、科学技術社会論、科学コミュニケーションなどをご専門とされていますが、研究活動と社会的実践活動の関係性をどのように捉えていますか？ 一般的に、研究というと象牙の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>全ての研究は社会的な意味を持つ。</h4>
<h5>Q:佐倉先生は、進化生物学、科学技術社会論、科学コミュニケーションなどをご専門とされていますが、研究活動と社会的実践活動の関係性をどのように捉えていますか？</h5>
<p>一般的に、研究というと象牙の塔にこもって社会から離れて行うものだと考えている人が多いと思いますけど、僕はあらゆる研究はすべてイコール社会的実践だと思っています。たとえ象牙の塔にこもって研究していたとしても、社会的に価値のない研究は存在し得ません。基礎的な研究で社会に直接は役に立たないように見える領域であったとしても、社会全体の文化の厚みを増し、長い目で見れば社会で暮らす人々の幸せに貢献します。たとえば音楽だってスポーツだって、何か製品を生産しているわけではないけれど社会を豊かにしているし、そういうものがない社会はありえないですよね。研究も同じようなものだと思う。だから研究者は、自分の研究が社会の中でどういう意味があるのかをもっと自覚するべきだと思うんです。</p>
<h5>Q:自覚し、それをきちんと社会に対して説明できなければならない、と。</h5>
<p>そうそう、それこそが研究者のアイデンティティなわけですよね。それは本人が説明できなければいけないと思います。その点では、どうなんだろうと思う研究者も少なくないですね。自分のアイデンティティが「自分の学問分野の中で何をするか」ということに閉じてしまっている。その学問分野はそれだけで存在するわけじゃなくて、他の学問分野もあれば行政もあれば事務の人もいればお金を払ってくれる人がいて、そういう中で成り立っている。こういう社会の循環の中で自分のアイデンティティを確保するということに無頓着な研究者が多い。ある研究者はこう言ったけど、私はこうしました、この人とはここが違います…という狭い範囲の中でしかアイデンティティを規定していないんですね。</p>
<h4>研究を社会に伝えるアウトリーチ活動の重要性。</h4>
<h5>Q:自分の研究が持つ価値を社会に正しく伝えるためにも、科学カフェなどのアウトリーチ活動は重要になるのだと思います。佐倉先生の領域では、アウトリーチ活動は研究業績として評価されるのでしょうか？</h5>
<p>業績としてはカウントされないですね。研究業績はやはり論文、学会発表、あとは単行本もカウントされる。科学カフェのような活動は、科学技術社会論とか科学コミュニケーションの分野では、本来きわめて重要な研究業績なので、評価すべきなんですが…、研究成果として評価するような仕組みや土壌はなかなかないですよね。</p>
<p>これはとても難しい問題を含んでいて、専門的な学会の中で発信した論文や学会発表だけが評価されるという仕組みは、専門的で信頼度の高い情報をスクリーニングするという意味では機能しているわけです。それがあまりにも専門家集団の中だけで閉じているから、科学カフェとかアウトリーチ活動、コミュニケーション活動も業績として評価されていないじゃないかという話になるわけだけども、じゃあ積極的に評価すれば良いのかといえば、必ずしもそうでもない。研究者は研究の才能があって研究しているわけで、アウトリーチ活動が必ずしも得意なわけではないでしょ。そういう人が研究に割ける時間の2割とか3割を使ってアウトリーチ活動をしても、たいして面白くないコミュニケーション活動になる(笑)。あいつあんなことやってるなら論文書いた方が良いのに…というものしかできずに、みんなが不幸になるんですね(笑)。だから科学者は全員そういう活動をやるべきだという風潮には、僕は反対なんですよ。コミュニティ内で役割分担が出来ていて、学会の中で研究をどんどんやれる人と、コミュニケーション活動のような社会的活動も担える人の両方がいる、そういう機能があれば良いんじゃないかと思っています。</p>
<h5>Q：科学カフェの他にはどのようなアウトリーチ活動を？</h5>
<p>科学未来館の機関誌『MeSci News』に、対談を連載していたんですが、それが最近本になりました。芸術や行政など、科学以外の領域で活躍している人たちとの対談で、そういった領域で科学はどのようなあり方をしているのか、がテーマです。</p>
<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=mindset-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4121021045&#038;ref=qf_sp_asin_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<h5>Q：佐倉先生はテレビ番組にも出演されていますが、研究者のメディアの使い方についてはどう考えていますか？</h5>
<p>一番最初にテレビに出たのは『サイエンスZERO』の前身番組で『サイエンス・アイ』っていうやつのコメンテーターとしてなんですけど、何気なく30秒間くらいのコメントをしたら、放映後に「見たよ」っていう反応がメールとかで沢山来たんです。一生懸命本を書いてもさ、あんまり反応来ないんですよ(笑)。1年とかかけて本を書いても反応ないのに、思いつきで喋った30秒のコメントに対して色々な反応が来る。テレビって何なんだろうと思いましたね。視聴率1%で視聴者数118万人ですから、発信された情報の届く範囲が論文や本に比べて遥かに多いわけです。恐ろしいことですよね。その時に、良い悪いはともかく、これだけ社会的に影響力を持っているテレビというものと、科学者もうまく付き合っていかなければいけないと痛感したんですよね。</p>
<p>メディアも、活字とテレビとラジオでは全然違いますし、全国紙と週刊誌でも違う。そうするとひとくくりに”マスメディア”と言ってしまうのは間違いで、メディアの中でどういう種類のメディアをどのように使っていくのか、研究者はセグメントした対策を立てなければいけません。たとえば新聞には出るけどテレビには出ないとか、テレビでもこういう番組には出ないとか、こういうことを言いたい時はこういうメディアに出るとか。研究者側が戦略的に考える必要がありますね。</p>
<h4>研究は常に社会の中で行われている。</h4>
<h5>Q：研究を社会に位置づいているものとして意識したのはいつ頃からですか？</h5>
<p>学生の頃はまだ社会との関係なんて全く考えていなかったですよ。どちらかというとそういうのは嫌いで、科学の社会的な問題よりは科学哲学とか科学史の方が好きで。そもそも楽しい知の世界を極めるために研究者になろうとしているのに、なんでそんなこう、現実のドロドロした世界にわざわざ君たちは行くんだ？と冷ややかに見てましたね。</p>
<p>学部時代は東大の心理学で、動物行動学について研究していたんですが、千葉県の房総半島で、野生のニホンザルを観察して卒業論文を書いてたんです。房総半島は猿害が多くて、猿が畑や田んぼを荒らすので、ある財団法人がやってる猿害防止事業があって、そこに半分ボランティアとして参加しながら施設を使わせてもらってたんですね。ところがもう面倒臭いわけ、その活動自体。猿が畑に出て来たら、僕らが花火をパンパーンってやってね、猿を追い払わなきゃいけないわけですよ。まあ仕事だからいいんですけどね、それはいいんだけど、花火なんかやったってさ、10分もしたら猿、戻ってくるんだわ(笑)。それでまた行ってパンパンやらなきゃいけないわけ(笑)</p>
<p><img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/11/nihonzaru1-243x300.jpg" alt="" title="nihonzaru" width="243" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-95" /></p>
<p>とにかくそんな調子でしたので、自然保護とか面倒なことに関わらずに研究だけをずっとやりたいと思っていたんです。それで、博士課程の時はアフリカにチンパンジーをみにいくんですけど…、そしたらさ、アフリカでもさ、やはり猿害問題はあるんですよ。おばあさんが、「チンパンジーにうちのオレンジが盗まれたんだけど、なんとかしてよ」とか言うわけ。なんでアフリカまできて、千葉で言われたことと同じこと言われなきゃなんないの！？それが嫌でアフリカまで来たのに！って(笑) </p>
<h5>Q：どこにいっても研究には社会で生きる人々が必ずついてまわる(笑)</h5>
<p>そう、それをその時に認識しましたよね。研究と社会というのは分けられるもんじゃないんだな、と。程度に差はあって、社会的実践が8割というスタイルもあるかもしれないし、研究が9割というスタイルもあるかもしれないけど、いずれにせよ、社会がゼロということはない。ただ、それでも面倒臭いからイヤだなとは思っていたんですけどね。</p>
<h5>Q：猿の研究から、どのようにして科学史や科学コミュニケーションを専門に？</h5>
<p>当時はすっごい大変だったんです。僕はデータをかちっと取ってしっかり分析する研究は苦手で、ガーっとホラを吹くのは得意なんです。…いや、ホラじゃないんだけどね(笑) 大局的視点に立って俯瞰するわけです(笑) ところがゼミや学会で話してても、全然データが無いじぇねえか、ホラばっか吹くんじゃねえ、と怒られるわけですよ。科学研究というのはちゃんとした実験や観察データを取るし、人文系の研究でもきっちり文献を読みこなして、ある証拠を積み重ねて自分の主張を客観的に補強するわけですよね。僕はそこが弱いんですよ。そうすると、当然周囲の科学者からは、「たった10頭しか猿みてないのに、証拠もデータも無いのにこんなこと言っちゃうわけ？ちょっとフィールドで取り直してこい！」とか言われるわけですよ。そうすると、だんだん面倒臭くなってくる。僕の頭の中では既に結論が出ていることだから、その補強材料をちょこちょこ集めることは、ズボラな僕にとっては面倒臭い(笑)。なんていうのかな、僕はロジックやストーリーに関心があるんですね。そこでストーリーが完結していれば、もうそれでいいじゃない、と。しかしそれでは当然、科学者としては評価されないし、ダメなわけですよ。これはめちゃくちゃ辛いですよー！ボコボコに言われるじゃないですか。だからディフェンスしていくわけじゃないですか。それでもあっさり突破されて、味噌汁で顔洗って出直して来いって感じですよ(笑)。俺はどうしたらいいんだろうか…もうダメかもしれない…どうやって生きていけばいいんだろう…って感じですよね。</p>
<p>そんな頃に、科学史学会の分科会として、生物学史の夏の研究合宿っていうのがあって、それに申し込んで行ったんですね。そこでは、データはもちろんちゃんと集めるんですが、ストーリーが重視されるんですね。僕はこっちは得意ですから、「君面白いことやってるね」みたいに評価されるわけですよ。当時所属していた大学の理学研究科では全否定されてて、アイデンティティがズタズタになっている時でしたから、「俺のオーディエンスはここにいたのか！」みたいな(笑)。その時の出会いから、大学院生（京都大学 霊長類研究所）時代に名古屋の南山大学のゼミに週1回に参加することになって、そこで科学哲学や科学史のトレーニングを受けて、だんだん科学史の方に移って行ったんです。</p>
<h4>越境しながら自分のスタイルを見つけ、仕事をつくる。</h4>
<h5>Q：大学院を出られた後は？</h5>
<p>ずっと猿の研究を続けるつもりはなかったので、その後、三菱化成生命科学研究所というところに入ったんですね。この研究所は1970年頃に分子生物学者の江上不二夫さんという方がつくった生命科学の研究所なのですが、江上さんが「これからの生命科学は必ず社会との関係が問題になる」と設立当初から言っていて、実験をやらないで社会と生命科学の関係を考える研究室を作ったんです。その研究室のポスドクになりました。</p>
<p>当初は米本昌平さんという科学史が専門の方が室長だったんですけども、僕は進化論に興味があって、猿学をやっていたし、そういう方面の科学史とか科学哲学をやりたい、ここならできるだろうと思っていたわけ。ところが米本さんから「進化論やっても食えないから、ダメだ。環境問題をやれ。」っていわれて。環境問題とかがイヤだからきたのに(泣) </p>
<p>その後すぐに米本さんは学術登山隊で4ヶ月間くらいヒマラヤに行ってしまってですね、僕は一人で環境問題の本を読んで、一生懸命環境倫理学の論稿を書いたんです。それで米本さんがやっと帰って来たからそれを渡したんですよ。ところが米本さんは僕の10倍くらいズボラな人で、僕の書いたレポートもその辺に積まれてしまって、読んでもらえないまま終わっちゃったんですけどね…。</p>
<p>とにかく、千葉で猿害問題で悩み、アフリカに行ってもやっぱり逃げられないと思い、進化論をやるために三菱化成に行ったのに無理矢理環境問題をやらされて…、そうしているうちにだんだんと考え方が社会を意識するように変わっていったんでしょうね。自分はもともとは象牙の塔に籠りたいタイプで実践的な事は苦手なタイプだったはずなんですが、今になって思うのは、研究者の人たちをみてるともっと実践が苦手な人たちが多いみたいで。自分から積極的に社会とのインターフェイスを担いたいと思ったことはないんですが、仕方なく僕がやるしかないな、と思うようになってきたのだと思います。</p>
<h5>Q：所属するコミュニティが移り変わりながら、考え方も少しずつ変わっていったんですね。</h5>
<p>そうですね。そういえば、三菱化成生命科学研究所時代に、 文科系の人が沢山いる研究会で発表の機会をもらったことがあるんですね。そこで、チンパンジーやニホンザルの研究の話をして、「統計的有意で云々…」とか発表すると、美学をやっていた先生から、「統計検定なんかやって猿のことなんかわかるの？」とか言われてですね。えーーー！？って(笑)。それまで所属していたコミュニティでは定量的なデータを取れ、統計検定をかけろ、と5年間言われ続けてきたのに(笑)</p>
<p>しかも、そこで文系の人たちが話してる内容もよくわかんなかったわけ。オートポイエーシスとかヴィトゲンシュタインとかそういう話ばっかりしてて。で、僕が発表すると「統計はダメだ」とか否定されて、あの時は辛かったですね。</p>
<h5>Q：領域を越境すると、それまで前提となっていたことが理解されないことがある。</h5>
<p>そうなんですよね。その領域のやり方とか、流儀・暗黙知・文化のような、身体で身につけてるやり方ってありますよね。それが理解出来ていれば違和感を覚えないのだと思いますが、外から突然やってくると、違和感だらけ。そういうことですよね。</p>
<p>一方では定量的なデータを取って統計検定かけろと言われ、もう一方ではそれは違うと言われるのは、今にして思うと文化が違うだけなんですよね。逆に言うとある分野の専門家は、金科玉条のようにこのやり方が正しいと思ってるんだけど、相対化して俯瞰してみると、そんなに普遍的なものじゃなかったりする。</p>
<h5>Q：コミュニティを越境して良かったことは？</h5>
<p>面白いのは、捨てる神あれば拾う神ありで、『現代思想』という雑誌で環境問題の特集が組まれることになって、その編集に関わってた川本隆史さんから記事を載せないか？と声をかけてもらったんですね。その時に「埋もれてる原稿があります！」と、米本さんに読んでもらえなかった原稿を見せたら、面白いと言ってもらえて掲載されたんですよ。更にそれを読んだ中公新書の早川さんという編集者の方から声をかけられ、本を執筆することになったんですね。それが一番最初に出版した『現代思想としての環境問題』という本なんです。</p>
<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=mindset-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4121010752&#038;ref=qf_sp_asin_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p>だから、なんだろうな、その分野の人からは評価されないけど、隣とか、斜め横の分野の人が引っ張ってくれる、自分を救い出してくれる、という経験は何度もしてますよね。隣の領域の研究会とかには積極的に参加した方が良いと思いますよ、若いうちは。</p>
<h5>Q：隣の分野とのつながりから、次の仕事がつくられていくことがあるんですね。</h5>
<p>人脈をつくるというと下心があるようで嫌な感じがしますけど、研究活動というのは社会的な営みですよね。一人で研究は出来なくて、仲間が必要だし、籠って本を読んでいたとしても、その本を書いた著者がいて、それを出版・流通した人がいるから読めるのであって、一人で本を読む行為ですら社会的な営みなわけでしょ。</p>
<p>そうすると、自分の周りにあるそういった社会をどのように自分がつくっていくか、ということだと思うんですね。それの一環として、自分と興味や価値観が同じ人、自分を評価してくれる人を見つけて、そういう人たちと一緒に共同体を作っていくプロセスは、研究活動のベースにあることだと思うんです。そういう意味でも、研究はすなわち社会的実践である、と言えるんじゃないですかね。</p>
<h4>“異端”が集まる縁側的な場を仕掛ける。</h4>
<h5>Q：現在の研究活動のベースとなる人のつながりはどのように作っていますか？</h5>
<p>今はどちらかというと、大変ありがたいことに、学生さんが受験で来てくれたり、科学コミュニケーションに興味をもっていてこういう場を求めてくれる人が、僕を利用しにきてくれます。僕のところに来る人って大体「流れ流れて系」が多いんですよ(笑) それなりに力があるし面白いんだけど、今までのコミュニティが合わなくて、流れ流れてここに辿り着く。僕のキャリアに似てますよね(笑)</p>
<p>そういう意味で、東京大学という、ある意味、日本の研究教育の本流ど真ん中の大学に情報学環のような学際的な組織があって、そこに山内さんや水越さんとか僕のようなタイプの研究者がいるっていうのは、外部の同じような境遇の人からみると、利用しがいがあると思うんですよね。それは、東大の社会的な機能や使命としても重要なことだと思います。</p>
<p>もちろん、優秀なパワーエリートを養成していくことも東大の大事な使命だと思いますが、やはりパワーエリートだけでは社会は回らない。同じような実力があって、けど社会の仕組みと合わないがために力が発揮出来ていない人って、いっぱいいるわけです。それはその人自身に問題があるというより、社会の仕組みが現実に対応出来ないからそういうことになっている場合も多い。そういう人たちをうまく救い上げるというのは、企業や行政ではなかなか出来ないことかもしれない。けれども、大学がそれを出来る幅を持っているというのは、社会にとって重要なことだと思うんです。</p>
<h5>Q：科学カフェのような実践はコミュニティ作りのための場でもあるのでしょうか。</h5>
<p>そうですね。カフェっていうのは、もともとはパブリックとプライベートの中間にあって、誰でも入れるオープンな場です。マルクスとエンゲルスが出会ったのって、パリのカフェなんですよね。19世紀末〜20世紀初頭のパリやベルリンのカフェでは、色々な分野の人がうじゃうじゃ集まって、そこで新しい芸術や思想が生まれていた。彼らは今でこそ大家と位置づけられていますけど、もとは既存のコミュニティに合わなくて、はみ出して、流れ流れてカフェに溜まっていた人たちも大勢いたわけじゃないですか。カフェっていうのは新しいコミュニティを生み出す場として機能していたんですよね。</p>
<p>日本の場合はパブリックとプライベートがそんなに厳密には分かれていなくて、たとえば「縁側」が良い例ですよね。東大に情報学環・福武ホールをつくる時に、僕らはここを大学の縁側として機能させたいと思っていました。それが実際に山内さんのご尽力でうまい形で実現できていると思いますし、大学の中に縁側のような場があるのは大事なことですよね。科学カフェを実践することも同じなんじゃないでしょうか。</p>
<p><img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/11/engawa-300x225.jpg" alt="" title="engawa" width="300" height="225" class="alignleft size-medium wp-image-97" /></p>
<h4>形式だけを真似ても場はつくれない。</h4>
<h5>Q：科学カフェの実践にはどのような課題がありますか？</h5>
<p>日本の科学コミュニケーションの問題は形から入ることなんですよね。海外で科学カフェが流行ってるから科学カフェやろう、みたいな。だけどイギリスやフランスが科学カフェをやる前に日本は全くやっていなかったのかといえば、実は色々な似たような試みがあったんですよ。ところが海外の真似をして科学カフェをやろうということになって、文科省から予算がついて…という流れは、何か違うんじゃないかと思うんですよね。既に日本流の種はあったわけだから、それを発展させていけばいいじゃないかと。</p>
<p>しかもね、科学カフェの発祥はイギリスなんですが、イギリスの科学カフェを始めた人はパワーポイントを使わないように、ってしてたんです。パワーポイントを使うと学者の講演になってしまうから。ところがそれが日本に入ってくると「パワーポイントは使ってはいけません！」みたいにルール化したりするわけです。最近は前ほどは言わなくなったみたいですが…。</p>
<p>確かにイギリスの科学カフェではパワーポイントを使わないっていう原則がある、使った方が良い状況もあって、そういうのは柔軟にやってるわけですよ。写真や映像を見せた方が良い時もあるでしょ。パワーポイントを使わないっていうのは、使わないことが目的なんじゃなくて、使わないことで平場のコミュニケーションを活性化するのが目的ですよね。そこの目的と手段が履き違えられてしまう。形だけ真似て、何のためにそれをやるのかを考えないんですよね。ネクタイはしないでください…とかさ、そんなのさ、したい奴はすればいいしどっちでもいいじゃねえかと思うわけですよ(笑) そうやって、煩瑣な些末なルールが沢山できてしまう。</p>
<h4>大学が社会のインキュベーション機能を担うために。</h4>
<h5>Q：佐倉先生はなぜ「大学」で活動を行うのでしょうか？</h5>
<p>大学は、すぐ世の中に役立つ事を要求されないような、基礎研究であったり、あるいは人文系の研究であったり、芸術なんかもそうだと思うんですが、そういうことがやれるインキュベーションだと思っています。こういうのは、例えば100研究して、50とか20とかがイノベーションになるわけじゃないですよね。もしかすると100のうち1にも満たないかもしれないけど、ある時とんでもないイノベーションが生まれるかもしれない、という確率です。じゃあその100は社会のどこでやるのかと言えば、企業にはお金儲けがあってそんな無駄なことは出来ませんから、やはり大学しかないと思うんですよね。</p>
<p>中にはインドの昔のお経の研究みたいな「何の役に立つのか？」と言われるような研究もあるかもしれないけど、僕はそういうものがないと大学じゃないと思うんですよね。トキが絶滅したら復活できないのと同じで、情報のプールである知識が一度干上がってしまったら、復活できない。でもいま、絶滅危惧学問というのはものすごく沢山ある。それらをどこで支えるかといったら、大学しかないんです。</p>
<p>そうした状況で僕が不満なのは、外から「役に立たない」と言われた時に、その領域の研究者は「役に立つことばっかり求めるのがおかしい」とスネちゃう場合があって、それは僕は違うと思うんです。自分たちがやっていることがどれだけ日本の世の中を豊かにするか、自分たちが説明しないとダメだと思うんですよね。それはやってる人にしかわからないと思うから。我々の研究があったから日本の文化が、社会がこれだけ豊かになりました、というロジックを研究者が胸を張って言わないといけない。それが出来ないなら、その分野が絶滅してしまうのは仕方が無いと思うんですよね。</p>
<h5>Q：しかし、全ての研究者が自分の研究の社会的位置づけを意識してしまうと、一見社会的に位置づけにくい創発の種が排除されてしまう可能性はありませんか？</h5>
<p>うーん、それは難しい問題ですね。そうだね、社会を意識していないから創発の種が保たれている可能性は確かにある。だけど、例えば、科学史学会とかで、すごい面白い発表ももある一方で、よくわからない発表もあるわけです。古い中国の本の数学の記号の意味の研究、とか。発表していた人以外誰も理解できてないような研究なんだけど、そういう研究が蓄積することでその分野が発展するという部分はあるはずで、僕はその人の研究が意味が無いとは思わないんです。でも、そこで発表していることが、その学会の他の人たちとどういう関係があるのか、というフックは出して欲しいんだよね。それは研究してる本人から出してくれないとどうしようもないから。そのフックを重ねていくことで、社会にもつながるんだと僕は思ってるんですよ。最初のフックを出してくれれば、こっから先は僕がやりますよ、と役割分担出来る。それが僕の仕事でもあると思っているし、あるいはその分野の他の研究者でも出来るかもしれないですし。でも、最初のフックすら出さない研究者には、「お前何のためにやってんだよ！」と言いたくなる。最初のフックを出す努力程度で、創発性が排除されることはないと思いたいですね。</p>
<p>繰り返しになりますが、どんな研究にも社会的な意味があるんです。すぐに役立たない研究であっても、広い社会の中で、自分の研究はどんな意味をもっていて、どう位置づけられるのか、それをもっと自覚し、説明する努力をして欲しい。自戒の念も込めて、それを研究者としてのアイデンティティにしながら、研究していくべきだと思っています。</p>
<h5>関連URL</h5>
<p>Twitter @sakura_osamu<br />
<a href="http://twitter.com/#!/sakura_osamu" title="Twitter @sakura_osamu" target="_blank">http://twitter.com/#!/sakura_osamu</a></p>
<p>佐倉統 研究室<br />
<a href="http://sakuralab.jp/" title="佐倉統 研究室" target="_blank">http://sakuralab.jp/</a></p>
<p>鏡の国のサイエンス<br />
<a href="http://www.miraikan.jst.go.jp/sp/deep_science/cafe/science/" title="鏡の国のサイエンス" target="_blank">http://www.miraikan.jst.go.jp/sp/deep_science/cafe/science/</a></p>
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		</item>
		<item>
		<title>研究が実践を生み、実践が研究を生む理想のサイクル。</title>
		<link>http://amphibia.jp/archives/1</link>
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		<pubDate>Mon, 24 Oct 2011 01:15:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[amphibia]]></category>

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		<description><![CDATA[研究にできない部分を実践として社会に還す。 Q:山内先生は、ベネッセとの産学連携プロジェクトであるBEATや、NPO法人Educe Technologiesによる社会貢献活動など、実践活動にも積極的に取り組まれています。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>研究にできない部分を実践として社会に還す。</h4>
<h5>Q:山内先生は、ベネッセとの産学連携プロジェクトであるBEATや、NPO法人Educe Technologiesによる社会貢献活動など、実践活動にも積極的に取り組まれています。このような社会的実践活動と、論文・書籍執筆などの研究活動の関係はどのように意識されていますか?</h5>
<p>まず、研究といっても色々あって、基礎研究のような”川上”にいる人たちもいれば、社会に直結しやすい応用的な領域、つまり”川下”の人たちもいます。僕の研究(学習環境デザイン論)は特に最も川下の領域で、社会に直結して学習を支援する方法を扱っているため、社会貢献や実践活動をすることが研究の前提としてあります。</p>
<p>それでも、何か実践をしたからといって、それが全て研究成果につながるわけではありません。確実にいえること以外はなかなか研究には出来ませんから、ある実践的なプロジェクトから論文や書籍のアウトプットとして出てくるのは僕の感覚では10%以下です。実践から抽出された10%の知見を、学会で論文の形で共有したり、本を執筆したりするわけですが、90%が残るんですね。</p>
<p>適切な喩えかどうかわかりませんが、それは「豆腐」を作った後に「おから」が残るようなものかもしれません(笑) 10%の研究だけしておけば良いわけじゃなくて、豆腐よりも栄養値の高いおからを捨てるのがもったいないのと同じで、残りの30~40%くらいまでは、なんらかの形で社会に還せると良い。そんなことを意識しながら活動しています。</p>
<div class="postInnerImgLeft">
<img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/10/cheese.jpg" alt="" title="cheese" width="250" height="300" class="size-full wp-image-27" /></p>
<p>社会への還し方として、産学連携研究でダイレクトに企業の活動に研究的知見を埋め込む形、NPOのような社会貢献活動に研究のノウハウを活かす形、シンポジウムで情報を提供したり、ワークショップを開催してコミュニティをつくったりなど、色々な方法があると思います。とにかく、川下の領域にいる研究者としては、社会的実践活動から生まれた30~40%の部分を、次の実践活動として社会に価値を還していくことが重要だと、個人的には考えています。</p>
<p>もちろん全ての研究領域でこうしたやり方をするのは無理だと思いますし、領域によって違うやり方があると思いますが、教育の中でも応用的な領域の人や、それこそ福祉や看護など、社会問題を直接的に解決しようとしている領域の人には転移可能なアプローチだと思います。
</p></div>
<h4>研究のアイデアは言語化できない”勘”から生まれる。</h4>
<h5>Q:次の研究の種のようなものはどのようにしてつくるのでしょうか。過去に行ったことをもとに次の研究をつくるのだと思いますが、30~40%のおからの部分からつくるのでしょうか?</h5>
<p>おからの部分も可視化されているので、実は豆腐でもおからでもない「残りの50%」からつくっています。残りの50%というのは、言語化も可視化もされていないんだけど、経験値として残っていて、「こういうことをやると、うまくいかないかも」という違和感のようなものが、”勘”として成立するんですね。そういう勘みたいなものは、言語化された知識よりも、非言語的に身体に残った経験の方が大きいと思うんですよ。例えば、ワークショップをやった時に、隅の方で全然活動に乗れていない子がいて、あの子はこういう理由で乗れてないんだろうな、というのが記憶に残っていたとします。この感覚だけではもちろん研究としては何もいえないし、そうした断片的な知識だけでは社会貢献活動も構成できないのだけど、こうして断片的に降り積もった身体的な記憶が、いわば氷山の下の部分のようなものとして構成されていく。それが、新しい研究アイデアを考える際に「この辺りを掘るとうまくいくんじゃないか」とか「こっちにいくとやばいな」という判断に効くんですね。こうした言語化されていない、社会に直接的には還しにくい経験値こそが、次の研究の源になっている気がします。</p>
<h4>フィールドで培った学習者に対する想像力。</h4>
<h5>Q:山内先生のこれまでの研究をみてみると、やはりフィールドワークの経験値は大きかったのでしょうか。フィールドワークを通してそうした勘が身に付いていったプロセスについて教えて下さい。</h5>
<p><a href="http://ci.nii.ac.jp/naid/110003026658" title="萱野小学校でフィールドワーク" target="_blank">萱野小学校でフィールドワーク</a>をしたのが、僕の研究者人生にとっての転機でした。それまでは現場に出るとしても2週間~1ヶ月程度の短いスパンでしたが、萱野小学校でのフィールドワークは「コンピューター室のお兄さん」という役割をもらい、3年間かけて行いました。そうやって、長い時間をかけてフィールドに入って観察する中で、授業として切り取られないリアリティがみえたんですよね。実は学校の先生は、そんなに細かくは観察していないんですよ。忙しくて休憩時間までは子どもたちを観察できないし、授業中もやることが沢山あるから、子ども一人一人を細かく観察しているわけじゃない。ところが先生とは違う立場でフィールドワークをする中で、休み時間も放課後も子どもたちを観察することができたし、授業中もじっくり観察できた。すると、子どもたちが考えていることとかやっていることって、当然ですけど、授業中と休み時間と放課後では全然違うし、人間関係も違うんですよね。そうした極めて多層的で多声的な状況を目の当たりにして、学習者に関する想像力のベースがそこで培われました。</p>
<p>フィールドワークに行くまでは、現場で大学院生としてコメントを求められた時に、学習科学や認知科学で明らかになった知見を話したりと、すごく理屈っぽいことを話してたんですね。そうすると、現場の先生には全然届かないんですよ。むしろ、反発される。たいてい「そんなことは言われなくてもわかってる」と言われるんですよね(笑) それがずっと悩みでした。ところが、フィールドワークを経験してからは、例えば「先生の授業案だと、こういう子どもは乗れるけど、乗れなくてこういう反応をする子どももいると思います。」といったように、子どものシミュレーションが出来るようになったんです。実際に授業観察後のコメントでも「あの子、こういう風にやっていましたよ」と具体的にコメントできるようになり、それから現場の先生たちが俄然話を聴いてくれるようになったんです。理論をそのまま伝えても伝わらないけれど、現場で起きていることを想像・観察して、それを元に何か付加価値があることを考えて還すことが出来れば、実践に寄与することが出来る。それからは現場を観察することもすごく面白くなって、人間の学びにより関心が持てるようになった。そしてそれを現場に伝えると先生たちが喜んでくれる。そういう研究と現場の回路が繋がった経験が、僕にとっての転機でした。</p>
<p>ちなみに、この研究のあとは、美馬のゆりさんと一緒にやった<a href="http://ci.nii.ac.jp/naid/110003026467" title="高校生と科学者をつなぐ研究" target="_blank">高校生と科学者をつなぐ研究</a>につながっていくんですよね。萱野小学校のフィールドワークは純粋にそこで起きていることを記述するタイプの研究でしたが、この研究では科学者と高校生をつなげて何か良いことを起こそうと、美馬先生や吉岡先生が現場の学習環境デザインをした実践を、僕が記録した研究なんですね。この時は「こういう介入をした時に、人はこういう反応をするんだ」というのが観察できたことが非常に勉強になりました。また、小学生ではない、高校生や科学者という違う対象を観察できたことも大きな経験でした。</p>
<h4>観察の視座を広げるための文献レビュー。</h4>
<h5>Q:大学院生にもフィールドに出るように指導しているのはどのような意図ですか?</h5>
<p>第一に、いくら僕が言葉で説明をしても、現場をみる目や学習者への想像力は身に付かないので、それを養って欲しいからです。第二の理由は、これからの研究者は研究だけでなく社会的実践活動が出来ることが必須になりますから、実際に実践をやってみることで、手が動く研究者になって欲しいと考えています。</p>
<h5>Q:一方で、フィールドに出ようとする大学院生に、現場に出ずに文献のレビューを続けるように指導することもありますよね。その判断基準はなんですか?</h5>
<p>あー、それは自分でも言語化できてない部分だなぁ(笑) おそらく、フィールドでものが見えるようになるための条件みたいなものがあるんですよ。問題意識がどこまで深まっているか、視座がどこまで広がっているか、というので現場で見えるものがだいぶ変わってくる。たとえば、社会人の人たちはものすごく狭くて強い問題意識を持っている。そのかわり、狭すぎて横が全くみえない。その状態でフィールドに出ても、逆に何も見えないことがあります。そこで文献をレビューすることによって、こういう見方もある、別の見方もある、と、ある程度視座が広がれば、フィールドで見えるものや気がつくことが増えていきます。だから、ゼミでは大学院生のレビューを聴きながら、問題意識の深まりや視座の広がりをモニターしていますね。文献を何本レビューしたかが大事じゃないんです。もちろん沢山レビューすることは大事だけど、機械的に読んでいても視座は広がらなくて、文献と対話しながら、その研究をした人の視点を自分のものにしていかないと、いつまで経っても視座は広がらない。読み方が大事なんですよね。</p>
<h4>産学連携によって研究成果を現場に届ける。</h4>
<h5>Q:社会的実践活動について伺います。実践活動には様々な形があると仰っていましたが、その中でも産学連携研究はどのような位置づけでしょうか。</h5>
<p>産学連携研究の場合は、企業とアライアンスを組みながら、研究と実践を同時に行っていくイメージです。例えば、産学連携研究である<a href="http://www.beatiii.jp/index.php" title="BEAT" target="_blank">BEAT</a>の<a href="http://www.beatiii.jp/projects.html#gakusyu-navi" title="学習ナビ" target="_blank">学習ナビ</a>のプロジェクトでは、学習方略と成績の関係を分析した上で、学習者に合う学習方略を提案するという研究を行いました。この時は、はじめから完成したシステムをベネッセのウェブサイト上で使えるようにすることを目指しており、実際に現在はベネッセのウェブサイトに統合されています。このようにすると、研究したことが論文で止まらずに、そのまま直接高校生に届くんですよね。企業は直接現場に届けるためのリソースやパスを沢山持っているので、研究を研究で終わらせないようにするには、企業とパートナーシップをつくるのが大事だと思っています。</p>
<p><img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/10/photo3.gif" alt="学習ナビ" title="学習ナビ" width="300" height="172" class="alignnone size-full wp-image-41" /></p>
<h4>法人格を持って社会的実践活動をするメリット。</h4>
<h5>Q:NPO法人で行う実践活動はどのような位置づけですか?</h5>
<div class="postInnerImgLeft">
<img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/10/photo41.jpg" alt="法人格を持って社会的実践活動をするメリット。" title="法人格を持って社会的実践活動をするメリット。" width="300" height="400" class="alignnone size-full wp-image-47" /></p>
<p>Educe Technologiesでは色々な取り組みをしていますが、例えばFLEDGEという勉強会は、学びの場作りに関心のある大学生を対象にした、ワークショップデザインの方法について学ぶための勉強会です。こうしたテーマに関心のある大学生は多いのに、若い人たちが学ぶための機会がそんなに無いなあと思ったんですよ。僕たちにはワークショップのノウハウはあるわけだから、そういう場をつくれば、社会貢献になると思ったんです。NPOの活動としてEduce CafeやLearning barのような実践活動もありますが、より若手の人材育成に踏み込んだ実践として、FLEDGEを立ち上げました。
</p></div>
<h5>Q:NPO法人Educe Technologiesを立ち上げたきっかけを教えて下さい。</h5>
<p>Educe Technologiesを立ち上げたのは今から7~8年前です。理由は社会貢献をするためという理由ももちろんあったのですが、実は当時の大学はあまり小回りが利く組織じゃなかったんですよ。簡単にいえば、企業との協同研究や社会貢献事業をやる際に、大学からスピンアウトした方がやりやすいと思ったので法人格をつくりました。</p>
<p>具体的に言うと、若干下卑た話になりますが(笑)、1つには収入面の理由があります。大学教員として外でコンサルティングの仕事を受けた場合、専門的知識を提供して価値のある仕事をしても、例えば企業のコンサルタント等と比べると圧倒的に対価が安い場合が多いんですね。菓子折りだけという場合もある(笑)。世の中の仕組みとして、これは不条理だなぁと思ったんですよね。ところがきちんと法人格を持って、仕事の価格を設定しておけば、同じ仕事内容でもきちんと相応の対価を得ることが出来ます。専門性を安売りせず、相応の見返りが得られる仕組みが必要。それが、法人格をつくった1つ目めの理由です。</p>
<p>もう1つの理由は、支出面の理由です。実は大学の支出の仕組みはとてもかたくて、融通が利かない。たとえば、イベントにゲストを呼んだとしても、飲食費にお金が使えないため接待ができません。また、ゲストに謝金を支払おうと思っても、総長クラスはいくら、教授クラスはいくら&#8230;、と謝金のレートが規定で決まっているんです。海外の偉い研究者を呼んでこようと思ったら、規定の額ではなかなか来てもらえません。ところが、イベントをNPO法人との共催にしてしまえば、支出が補完できるわけですよ。やはり法人格があるのとないのとでは、やれることが全然違いますよね。</p>
<p>もちろん、株式会社という手もありましたが、お金を儲けたかったわけではないですし、企業だと営利目的になるため嫌がられる可能性もある。教育の領域の場合はNPO法人の方が仕事の幅が広がると考え、NPO法人にしました。</p>
<h4>研究と実践を支えるコミュニティをつくる。</h4>
<h5>Q:シンポジウムやワークショップのような実践はどのような位置づけですか?</h5>
<p>もちろん発信した情報が誰かの役に立つということはあると思いますが、それ以上に重要なのは、シンポジウムやワークショップのようなイベントは、自分の研究領域に関心がある人たちがゆるやかにつながるためのコミュニティ作りだと思っています。研究者主催の シンポジウムというと、「文科省がうるさいから」「情報公開の義務だから」といって仕方なくやる人が多いですが、それでは人が集まらないし、集まってもろくなことならない。それよりも、そこで出会った人たちが、次の新しい研究や実践に継続してコミットしてもらえるような関係作りをかなり意識してやっています。</p>
<p>例を挙げると、BEATで行った<a href="http://www.beatiii.jp/projects.html#socla" title="Soclaプロジェクト" target="_blank">Soclaプロジェクト</a>の実践の際に、サポーターをTwitterとFacebookで公募したんですよね。実はこの時に核になって動いて下さったのは、これまで<a href="http://www.beatiii.jp/seminar/index.html" title="BEATセミナー" target="_blank">BEATセミナー</a>に参加してくれていた人たちだったんです。シンポジウムにわざわざ脚を運んで下さるほどコミットメントのある人たちだから、そういう呼びかけをした時に、RTなども含め、一番に反応してくれた。今年の実践が成功したのは本当にその方たちのおかげだと思っています。</p>
<p><img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/10/photo5.jpg" alt="研究と実践を支えるコミュニティをつくる。" title="研究と実践を支えるコミュニティをつくる。" width="540" height="340" class="alignnone size-full wp-image-43" /></p>
<h4>実践が研究を生み、研究が実践を生む理想のサイクル。</h4>
<h5>Q:Soclaプロジェクトについてもう少し詳しく教えて下さい。</h5>
<p>先ほど、萱野小学校のフィールドワークの次に、高校生と科学者をつなぐ研究をしたと話しましたよね。実はSoclaプロジェクトは、この研究の際の”言語化できない50%の経験値”の部分を利用してつくられたものなんです。高校生と科学者をつなぐ研究では、電子掲示板というクローズドなネットワークを利用していました。ここで培ったクローズドな学習を支援するための経験や仕組みと、ソーシャルメディアの開放性を両立させるための仕組みをつくって実証的に研究する、というのがSoclaプロジェクトです。</p>
<p><img src="http://amphibia.jp/wp/wp-content/uploads/2011/10/photo6.jpg" alt="実践が研究を生み、研究が実践を生む理想のサイクル。" title="実践が研究を生み、研究が実践を生む理想のサイクル。" width="300" height="200" class="alignnone size-full wp-image-44" /></p>
<p>この研究で最も意識したのは、「ここで生まれた関係を、研究が終わったあとも続けたい」ということでした。Facebookを選んだ理由は、実名で堂々と登録して、ある程度の安全性があって、そのまま関係性を継続させたいと思ったからなんですね。そして実際に、現在は研究期間をもう終えているのですが、Facebook上で「同窓会」というのが出来ていて、今でも関係がそのまま自律して続いているんですよ。こういうことは、実は今までのプロジェクトでは全然できなかったことなんです。産学連携のように知材を移転して企業の中に残すということはありましたが、研究そのもの枠組みがそのまま維持されるというのはとても大変なことです。先ほどお話しした高校生と科学者のネットワークをつくった時も、あの研究を行った2年間で関係が終わってしまいました。そのまま継続するのはとても大変だし、大学は新しいことをどんどんやっていかなきゃならないから…。それがとても悲しくて、出来れば研究したことがそのまま続けば良いな、とずっと思っていたんです。今回、Soclaプロジェクトで初めてそれが実現できて、とても嬉しかったです。</p>
<p>集まってくれたサポーターの人たちと、高校生たちが、Facebook上でコミュニティとして自律していて、くだらない話もしているんだけど(笑)、関係性が続いてるんですね。今は彼らは高校2年生だけど、多分高校3年生になったらまた色々と質問をし始めるでしょうし、大学3年生になったら今度は就職の話をし始めると思うんです。もし本当にそこまで関係性が続いたとしたら、その5年間でもう1回研究ができる。一粒で二度美味しい、三度美味しいモデルですよね(笑)</p>
<p>要するに、研究によって社会的な関係性が生まれ、その関係性がまた次の研究を呼ぶ循環モデルです。このサイクルをつくることが出来たら、研究者にとっても社会にとっても嬉しい、最も理想的な形ですよね。</p>
<h4>大学が社会を変えるために。</h4>
<h5>Q:仕組みをつくることが重要なんですね。</h5>
<p>仕組みを考えるのはとても大事です。研究者は論文を書くことにどうしても意識をフォーカスしてしまいます。論文を出すことはとても大事で、やらなければいけないことなんだけど、これからの研究者は論文を出すだけでなく、論文が出るような周囲の仕組みを意識的かつ戦略的につくっていくことが重要になります。</p>
<p>僕は、大学は社会にとっての問題解決とイノベーションの府になるべきだと考えています。そのためには、研究は研究、社会的実践は社会的実践、と切り分けてやっているままでは無理だと思ってるんです。少なくとも、川下の領域にいる研究者は、研究と社会的実践がぐるぐる回り続けるような回路を大学の外側に構築し、そうした関係性が出来ているから、川上の基礎研究をやる人が安心して研究できる&#8230;という仕組みをつくる必要がある。川下にいる研究者は、一斉に先頭に立って、是非そういう回路をつくって欲しいと思います。みんなが一斉にそういう動きをすれば、大学はものすごい組織になれると僕は思ってるんです。</p>
<p>今の社会の中で、大学だけが圧倒的な余裕を持っています。つまり、イノベーションのポテンシャルを持っている。ここしか僕はないと思ってる。より多くの大学の研究者や、博士課程の学生さんが、社会に価値を生み出しながら研究業績が出るような仕組みをそれぞれの領域でつくりはじめたら、日本の大学は変わる。そうすれば日本全体にも大きなインパクトがあるだろうと、僕は希望を持っています。</p>
<h5>関連URL</h5>
<p>Twitter @yuuhey<br />
<a href="http://twitter.com/#!/yuuhey" title="Twitter @yuuhey" target="_blank">http://twitter.com/#!/yuuhey</a></p>
<p>ylab 山内研究室<br />
<a href="http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/ylab/" title="ylab 山内研究室" target="_blank">http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/ylab/</a></p>
<p>NPO法人 Educe Technologies<br />
<a href="http://www.educetech.org/" title="NPO法人 Educe Technologies" target="_blank">http://www.educetech.org/</a></p>
<p>BEAT<br />
<a href="http://www.beatiii.jp/index.php" title="BEAT" target="_blank">http://www.beatiii.jp/index.php</a></p>
<p>山内祐平(1999)ネットワークコミュニケーションの実践力を育てる場としての学習環境デザイン. 日本教育工学雑誌 23(1), 37-46.<br />
<a href="http://ci.nii.ac.jp/naid/110003026658" title="山内祐平(1999)ネットワークコミュニケーションの実践力を育てる場としての学習環境デザイン. 日本教育工学雑誌 23(1), 37-46." target="_blank">http://ci.nii.ac.jp/naid/110003026658</a></p>
<p>山内祐平(2003)学校と専門家を結ぶ実践共同体のエスノグラフィー. 日本教育工学雑誌 26(4), 299-308.<br />
<a href="http://ci.nii.ac.jp/naid/110003026467" title="山内祐平(2003)学校と専門家を結ぶ実践共同体のエスノグラフィー. 日本教育工学雑誌 26(4), 299-308." target="_blank">http://ci.nii.ac.jp/naid/110003026467</a></p>
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